2012年6月12日火曜日

イスラームの知とハディースの知


イスラームの知とハディースの知


鎌田繁(Kamada Shigeru)著
http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/hadisu_3.html

 

ユダヤ教を「法」の宗教、キリスト教を「愛」の宗教、それに対してイスラームを「知」の宗教として特徴づけることがある。
この表現の当否についてはいろいろの議論ができようが、少なくともイスラームには「知」を重んじる傾向があるのは確かである。
「神はあなたがたのうちの信仰敦き者や、知を授けられた者の位階を何段も上げられる」というクルアーンの言葉(五八:一一)を始めとして、ハディースの中にも「知を求めることはすべてのムスリム(イスラーム教徒)の義務である」とか、「中国までも知を求めよ」とかよく知られたものがある。これらのハディースのなかで言及される「知」とは、預言者ムハンマドの言行についての知識を指すと考えられているが、場合によってはイスラームの学問全般、さらには哲学的叡知や科学的知識にまで拡大解釈される。

とはいえ、このふたつのハディースはよく知られたものでありながら、牧野先生の訳されたブハーリーの「ハディース」には載っていない。
確かにこのハディース集にも「知識の書」(上巻三九頁以下)があり、知をめぐるさまざまなハディースが引かれている。
それなのになぜ収録されていないのか。
それは一言でいえば、「真正なもの( サヒーフ)」と名付けられているブハーリーのハディース集に採録できるような、十分な真正性がこのふたつのハディースにはないためである。預言者ムハンマドの言行はムスリムの信仰や行動の規範となるので、その記録であるハディースが真正のものであるかどうかは極めて重大な問題である。それ故数多いハディースの採否選別はムスリムのハディース学者が最も意を注いだ点であった。欧米の研究者の中にはハディースが預言者に遡及することは歴史的にありえないとして顧慮しない者もいるが、それではその後の千年を超えるムスリムの信仰を十分に理解することはできなくなってしまう。

さて上で引いたハディースの「知」と関係するが、知識をもつ者、学者についてブハーリーの「ハディース」には次のような言葉がある。
「学者たちは預言者たちの相続者で、彼らから知識を受け継いだ。知識を得るものは豊かな分け前に与り、知識を求めて道をたどる者に、神は天国への道を易しくし給う」(上巻四四頁)。知を求める者は、大きな分け前、来世の幸福を得るとしており、いかに知をもつ者が尊重されているかを端的にこれは示している。だが、ここに引いた言葉は、伝承経路が全く記されずに、ハディース自体ではない説明の部分に書かれており、ブハーリーは真正なハディースとは考えていなかったか、あるいはハディースであるとは全く考えていなかったのであろう。しかしブハーリーとほぼ同時代に行き彼と並び高い権威をもつムスリムという名の学者のハディース集には、後半の「知識を求めて道をたどる……」の部分がほぼ同じ形の別の長いハディースの一部として採録されており、この言葉は全く根拠のないものではないようである。

他方、この言葉は、ブハーリーとムスリムの二書に次ぐ四スナンと呼ばれる四つのハディース集では、れっきとした預言者の言葉としてさらに整った形で記載されている。
すなわち、「知識を求めて道をたどる者は神が天国の道の一筋に歩ませる。
天使たちは知識を求める者を幸福して〔彼らの上に〕その翼を休める。
天にある者、地にある者、水中の魚まで学者の罪の許しを乞うのである。
学者の功徳は熱心に礼拝する者にも勝り、ちょうど満月の晩の月がその他の星に勝るようなものである。
学者たちは預言者たちの相続者で、預言者たちは金貨や銀貨は一枚も遺さなかったが、知識を遺した。それを得る者は豊かな分け前に与るのである」(アブー・ダーウードによる)。
このハディースはアブー・ダルダーを第一伝承者としているが、この人物については何も知られておらず、教友であることも疑わしいとすらハディース学者は述べる。
さらにそれに続く伝承経路にも信頼性を欠く薄弱な伝承者が並び、またある集成では伝承者が一人脱落しているものもあり、このハディースの本文が十分な真正性をもっていないことを明かにしている。
このように伝承経路の精査を行なうことでこのハディースは格づけられ、その結果から見ればブハーリーに採用されなかったのも当然といえる。

ハディースの効用はその真正性が劣るからといってそこで終ってしまうものではない。
確かに刑罰などの法学上の判断の根拠として用いる場合は薄弱なハディースは使うことは許されない。
だが神への思いを燃え立たせ信仰心を高めるためであれば、その内容が重要なのであってその格付けはそれほど問題にはならない。
その意味でこのようなハディースを、真正性が劣っているからといって、ハディース集から排除することはなかった。

ここで目をスンニー派からシーア派のハディース集に向けると、ここにもよく似たものがある。
「学者たちは預言者たちの相続者である。これは預言者たちは金貨や銀貨を遺すことなく、彼らの伝承の一部を〔それぞれに〕遺したということである。そのいくばくかを得た者は豊かな分け前を得るであろう。考えてみなさい、お前達のこの知識をいったい誰から得ているかを。どの時代でも我々の間には預言者の一族がおり、公正な者として極端論者の歪曲、嘘つきの剽窃、無知な者の勝手な解釈を排除するのである」(クライニーによる)。
このハディースはシーア派第八代イマームの語ったものとされている。
シーア派では預言者の言行と、その子孫で無謬の権威を継ぐイマームの言行とは同等であると考えるので、シーア派のハディース集には預言者ムハンマドだけではなく、彼に続くイマーむたちの言葉が多量に含まれる。
むしろ預言者が直接語っているものの方がはるかに少ないくらいである。
このハディースの前半は先のスンニー派のものと同じであるが、後段では預言者からの知識が間違いなく学者たちに伝わるためには預言者の子孫であるイマームたちが必要なのだという議論が付加され、シーア派の特徴が明かになる。

このようにブハーリーの書に何となく記されている言葉も、別のハディース集では立派に預言者の言葉とされたり、またシーア・イマームの言葉として伝えられたりする。
この長い伝統の中で培われたハディース文献は量的にも質的にも多様であり、一筋縄ではとらえられない。しかもその背後には複雑な解釈手続きが隠されている。イスラームの知を蔵するハディースの全体像を知ることは容易ではない。牧野先生のブハーリーの翻訳は、このハディースという大きな宝蔵に分け入る戸口を開く有意義な仕事なのである。
 



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