2011年12月18日日曜日

アフリカで見た教育への希望とそれが失われた日本

アフリカで見た教育への希望とそれが失われた日本
認識ギャップを埋めない限り、「就職難」は解消しない
御立 尚資  


以前、ケニアに行く機会を得た。国連のWFP(世界食糧計画)のお手伝いをしている関係で、食糧援助の現場に行くことになり、ソマリアとの国境にある難民キャンプ、干ばつが続いて家畜を失った遊牧民の仮居住地、そして首都ナイロビにある世界最大のスラム、キベラの3カ所を回った。

 その際に感じたエイズをはじめとする感染症の問題については、一度このコラムの前身(関連記事:アフリカで見たもの)でも触れたので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれない。

 今回は、今振り返ってみても、ケニアで見聞きしたことの中で一番ガツンと衝撃を受けたことについて書いてみたい。極度の貧困や生命の危機に囲まれた状況での、「次世代の将来をつくるもの」への熱情ということについてである。


援助物資よりも教育を望んだケニアの人々

 ケニアで回った3カ所それぞれで、同じ質問をしてみた。食糧援助の現場なので、「食糧以外に、どのような援助を期待しますか」という内容だ。

 日本人からのこういう質問に対して、もし読者の皆さんが次のような立場に置かれていたら、どういう答えをすると思われるだろうか。

・ 内戦で国を追われ、数百キロメートルにもわたる距離を、ゲリラや強盗の襲撃の恐怖に襲われながら逃げてきた難民
・ 生活の糧であり、さまざまな文化の中核でもある家畜たちを相次ぐ干ばつですべて失ってしまった遊牧民
・ エイズで両親をなくし、思春期の10代から小学生までの4人だけで、段ボールとほんの少しの板切れを組み合わせたスラム街の家で暮らす子供たち

 その場にいた私は、大変恥ずかしながら、「衣類や医薬を欲しがるかな、あるいは日本人ということで、何か家電製品が欲しいと言うのだろうか」と浅薄なことを考えていた。

 ところが、返ってきた答えは、3カ所とも同じ。何と「教育を援助してほしい」というのだ。

 難民キャンプでは、次のような答えが返ってきた。

 「自分たちの国は、自分たちの世代ではきっと復興に至らないだろう。ただ、ここにいる子供たち、ここでこれから生まれてくる子供たちの世代が、平和になった国に帰れるようになった際に、ソマリアの復興に役に立ち、かつ暮らし向きの良い生活ができるようにしたい」

 「ついては、難民キャンプの中での初等教育だけでは不足なので、中学、高校を作る、あるいは外の学校に優秀な子だけでも行けるように奨学金制度を作る、といったことを、是非お願いしたい」

 自らは読み書きのできない遊牧民は、次のように語った。

 「遊牧をしている限りは、学問というのはあまり意味があるとは思えない。(部族のしきたりや遊牧の中での伝承を通じて)必要なことは自然と覚えられるから。ただ、村に定住するとなると、子供たちは、村の子供たち同様に、読み書きができ、数字を操れるようにならないと、対等に暮らしていくことができない。仮住まいの定住地ではあるが、何とか、小学校の教育を提供してもらえるよう助けてもらえないか」

 スラムに住む4人兄弟の2番目の男の子は、中学レベルの学校で優秀な成績を上げているらしいのだが、自分もエイズに感染しており、既に腹水がたまって大きくお腹がふくれている。

 そういう状況で、「自分は勉強が好きなので、上の学校に行きたい。そして、キベラ(スラム地区)に住んでいる、自分と同じような境遇の子供たちを教える教師になりたい」と夢を語り、はにかみながら、それを助けてもらえるとうれしいと答えた。

 正直なところ、私自身には、とても考えが及ばなかったような答えが、3回続けて返ってきた。

 「今現在の飢餓すれすれの状況から抜け出すのに、食糧を援助してくださって本当にありがとう。でも、これからのことを考えると、『教育』を助けてもらえることが、もっともありがたい」

 要約してしまえば、こういうことだろうが、同様の問いを先進国で貧困に苦しんでおられる方に投げかけてみたら、どういうふうに返ってくるだろう。逆に、さまざまな支援活動に携わる側に聞いてみたら、どうだろうか。

 就業訓練の話はきっと出てくるような気がするし、何人かの方は「子供たちの教育」に触れられるだろう。ただ、ケニアで聞いたような「初等・中等教育さえきちんと受けられれば、子供たちの将来は、きっと今より良いものになるはずだ」という、未来に向けた強い気持ち、教育に対する深い信念と熱意、というものは、同じレベルでは返ってこないような気がしてならない。



いったん、ちょっと引いて考えてみよう。

 初等・中等教育が行きわたり、軽工業から少しずつ工業化が始まる。それに伴って、工業社会型の流通業やサービス業も整備されていく。

 社会経済全体の生産性が上がり始め、ある段階から労働者の賃金も上がっていき、工業社会の勤労層が、中流階級の仲間入りをし、社会の中で大きな割合を占めるようになる。

 産業革命以降、多くの国の発展は、上記のようなパターンをたどってきた。

 もちろん、国の経営の巧拙、資源価格の乱高下や戦争といった大きな変化、さらには「地の利」や、恐らく「運」という存在もあって、うまくいった国、それほどでもない国、いろいろとある。だが、大きく言ってしまえば、「初等・中等教育充実→工業化→中流社会形成」というのが典型パターンだといってもよいだろう。

 ケニアのように、このパターンに入りかけている国、あるいは昨今大きく伸びてきている大部分の新興国のように、このパターンの真っ只中にいる国。こういった国では、教育に対する信仰的なまでの信頼と熱意が、素直かつ自然に醸成されやすい気がする。1970年代ぐらいまでの日本も同様だったかもしれない。


先進国になると教育が成長に直結しなくなる

 ところが、1人当たりGDPが3 万ドル(約246万円)あたりを超え、いわゆる先進国の仲間入りをした後は、事はそう単純ではない。初等・中等教育の義務化は何年も前に終わっており、また、生活レベルを向上させ、国を発展させるということと、教育投資をすることとが、目に見えるような形でリンクしにくくなる。

 イノベーションを生み、企業競争力を上げるうえで、高等教育の重要性が高まってくるが、一方で、中流社会の中での進学ブームは、高等教育自体をマス化してしまう。

 大学卒の希少性が次第に失われ、また、(大学教育が企業ニーズに合わせる形でよほどの自己変革を行わない限り)大学卒というだけでは、過去には大学卒だから就くことができていた職種に就けなくなってくる。

 今、日本で起こっていることは、こういった工業化・中流化を数十年前に達成してしまった国ならではの、さまざまなミスマッチの顕在化だろうと思える。

 これが最も顕著に表れているのが、現在の大学生の「就職難」だと思う。就職氷河期論が叫ばれて久しいし、実際に正社員の職に就けない大卒者も多数存在して、社会問題化していることはご存知の通りである。

 文部科学省の学校基本調査を見ると、大学卒業者の就職率は、いわゆる失われた20年の間に、大きく低下している。


しかし、気をつけて見てみると、同じ期間の大学卒業者数は、大きく増加していることに気づかされる。


この2つの数字を掛け算してみれば明らかなのだが、この間の大卒就職者数は30万人台で増減しているものの、実は大きな変化を見せていない。

 確かに、年によって「大卒採用数」あるいは「大卒募集数」はある程度変化する(従って、卒業年による運不運は一定程度存在する)ものの、そのこと自体よりも、1990年から2005年までの間に、大学卒業者数が15万人、3割以上も増えたことの方が、就職難により大きなインパクトを与えているといってもよいだろう。

 少子化と言われつつも、大学の定員大幅増、進学率の高まりから、大学卒業者数が増え続けた。このため、求職者数と採用者数のミスマッチが起こっているのだ。


さらに、卒業生本人も、その親も、過去の大卒者の就職先・職種のイメージを引きずり、大企業のホワイトカラー中心の就職を当然視している可能性が高く、それがパーセプション(認識)上のミスマッチを引き起こしていそうだ。

 リクルートワークス研究所の調査によれば、2011年3月卒の大学生に対する民間企業の求人総数は、58万2000人。これに対して、民間企業への就職希望者は、45万6000人。求人総数の方が求職者よりも多いらしい。

 一方、企業の規模別の求人倍率を見てみると、従業員数5000人以上の大企業では0.47、1000人以上では0.63と、求職者数の方が上回る狭き門なのだが、300人未満の中小企業では、これが4.41となり、圧倒的な売り手市場になる。

 大卒者が、企業規模や職種にこだわらず、中小企業も含めて、職を求めれば、全体としては、募集人数の方が卒業生より多い。にもかかわらず、皆が限られた大企業を志望するため、就職難が起こっているということだろう。

 大変ドライな物言いになってしまって恐縮だが、親の世代と同じ感覚で、「大卒の就職は、大企業のホワイトカラー」という思い込みがある限り、景気の良し悪しにかかわらず、現在のような「就職難」は解消しない。

 大卒者全般を取ってみれば、中小企業や現場の仕事も含めて、もう少し幅広くキャリア形成を考えていかない限り、出口がないのではなかろうか。

 もっと言えば、これは大学生の側だけでなく、企業の側にも、パーセプションギャップ解消の責任があるように思える。人口減少、デフレ経済という状況の中でも、従来型の大卒求人は何とか同程度続けてきているものの、どこかではっきりと「従来のような大学を出た新卒の仕事、というだけでは、大部分の大学卒業者に職を提供することはできない」ということを率直に伝えることが必要だろう。


企業はほしい人材について本音を語るべき

 これは、単純に、「現在の大卒の多くは、過去の高卒者の仕事についてもらうしかない」ということではない。これからグローバル展開の度合いをさらに強めていく多くの企業は、海外人材をどんどん採用していくことになろう。しかし、必要な能力を有する日本人大学卒業者がもっと多く出てくれば、彼ら、彼女らを(日本人の採用数を増やしても)採用する企業は数多いはずだ。

 例えば、議論してみると、本音では次のように思っている企業がいくつも存在する。

 「新興国への事業拡大、あるいはイノベーション拡充によって、企業の成長、そして日本人の雇用維持は可能である。逆説的に言えば、こういう方法でしか、日本の経済と社会を元気にしていくやり方はない」

 「従って、学歴にかかわらず、異文化・言語について深く学んだ人材、あるいは異分野の人とチームで働きイノベーションに貢献できる人材を強く求めるので、それに向けて、(大学在学中に)自らを鍛えてきてほしい」

 「教育によって、自らの生活を向上し、さらにより良い社会・国づくりにも役立つ」という熱気を取り戻すためにも、企業側はこういった本音を語っていき、大学教育、そして大学生の自らのキャリア設計を進化させていく手助けをすることも不可欠だと考える。

 ケニアやその他の新興国の「教育」信仰は、一面うらやましいところがある。しかし、彼らから見れば、もっとうらやましいレベルまで社会・経済を進歩させてきた我々は、現在の日本および日本企業のニーズに応じた形で、新たな「より良い社会づくりにつながる教育への熱意」を、意思をもって構築していく時期にある。

 「昔は良かった」とか「最近の大学生は…」といった出口のない堂々巡りの教育論が目立つけれども、もっと前向きの「新しい日本の教育論」を戦わせ、そして何よりも、学ぶ内容、自らのパーセプションの両面のギャップから、暗い気持ちになりがちな学生の皆さんを元気づけていく方が、建設的だと思っている。

 読者の皆さんは、どうお考えになるだろうか?





最後まで読んでくれてありがと~~~♪

励みの1票(ネコ)をおねがいしま~すm(_ _)m

いつも応援、ブログに遊びに来てくれてありがとう★

ブログランキング↓↓↓
人気ブログランキングへ

ブログ村↓↓↓
にほんブログ村 海外生活ブログ アフリカ情報へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ イスラム教へ
にほんブログ村 恋愛ブログ 国際結婚(アフリカ人)へ

0 件のコメント: