2011年3月20日日曜日

MR. KEN NOGUCHI Support for Earthquake&Tsunami

野口健さんのサポート、支援のプロセス。
http://blog.livedoor.jp/fuji8776/

やっぱり、彼の行動力、優しさに、心揺れました。
ヒーローですね。



内容は、以下。

東日本大震災から一週間。バタバタと大慌てであっという間に過ぎた。3月11日に発生した大地震時、私は羽田空港にいた。12日に青森県で講演会が予定されていたのだ。空港内もユラユラとまるで船に乗っているかのような横揺れが続き、次にガタガタと建物が激しい音をたてた。これはいつもの地震とは違うと建物から室外に避難。駐車してあったバスが揺れに揺れている姿に「これはヤバイ」と初めて身の危険を感じた。


それでもその時点ではこの直後に発生した大津波の大惨事など知る由もなく再び空港内に戻りゲートへ。青森県に先に入っていた講演会フタッフに青森の状況を聞こうと携帯電話と取り出したが携帯は繋がらない。2時間ほど待機していたらフライトの欠便がアナンスされた。何かが起きている。そしてふと窓から表に視線を移したらなんとも形容しがたい空の色。一見美しい夕日のようでありながらその上部には分厚いグレーの雲がまるで渦を巻いているかのような、なんとも不気味な世界にゾクッと背筋に寒気が走った。これは大変な事が起きていると、再び携帯電話を試みるも不通。

しかし、ツイッターだけは繋がった。青森入りしているスタッフのツイッターに「市内が停電」「講演会は中止」と書き込まれてあり、帰宅しようと歩きはじめたら空港内のテレビに人垣が。テレビ画面を見たら横一直線の巨大津波が民家や車などをまるでマッチ箱のように次から次へと流している。最初、映像が強烈過ぎて今一つ意味が分からず「なに?」という感じであり、私含めその衝撃的な映像に足を止めてテレビを見ている人たちもポカンとしていた。それは9・11のあの映像を始めて見た時にショックのあまりにしばし思考が停止したのと同じであった。


あれから一週間。最初の数日間はテレビ画面に釘付け。被災地の映像に言葉を失い、ただただ画面を眺め続けていた。気がつけばガクッと気持ちが落ちている。そして無気力化していく。これはいけない。被災者ではない我々が落ち込んでいる場合じゃない。これだけの震災である。国や行政だけでは限界がある。またこんな時こそ日本人が一丸となって復興に向けて取り組まなければ、この国の未来はない。自分に何が出来るのか。テレビを見ながら必死に考えていた。我々が元気を失ってしまったらどうして応援できるのか。「しっかりせい!」と叱咤していた。


そこで一つ思いついたのが「寝袋」である。被災地の夜は寒い。多くの避難所では一枚の毛布しか配られていないとのこと。燃料不足から暖房も限られまた停電により夜は真っ暗闇。寒く暗い永い夜。これがどれだけ辛いことなのか、登山家としての経験上から少しは感覚的に理解できる。故郷が壊滅的に破壊され家族を失い、または安否の確認が出来ないという異常事態が続き、精神的に限界が続く中、寒さと不眠が追い打ちをかける。「精神」と「肉体」が壊れてしまえば絶望感ばかりが残される。



そこで「寝袋」を被災地に届けようとなったのだ。布団の場合は敷布団なりが必要となる。重たいだけでなく運ぶのにかさ張る。それに比べ寝袋はマット一枚敷けばいい。マットがなければ段ボールでもいける。また軽くギューと押し込めば小さくなるので持ち運びも便利であり、一台の車でも相当数の寝袋が運べる。そして何よりも寝袋のジッパーを閉めれば寝袋の中の空気が密閉され体温が籠り暖かい。



色々なご意見があるかもしれないが、私に出来る事の一つとして寝袋を被災地に届ける事だと決めた。何しろ時間との戦いでありノンビリしていられない。私のツイッターには本当に多くの意見が全国から寄せられ、何には「低体温症で多くの被災者が避難所で凍死している。早く寝袋を届けてください!」といった悲痛な叫びも。それから事務所を上げて寝袋探しが始まった。付き合いのあるアウトドア・メーカーに片っ端から連絡をいれるものの、この状況下では止むを得ないのだが在庫がない。「すみません、在庫がありません」との返事ばかり。


しかし、コールマンジャパンさんに連絡を入れ「救援物資として被災地に出来るだけ多くの寝袋を届けたいので注文できますか」とすがる様な気持でお願いしたら「すぐに確認します!」と返事を頂き30分もしないうちに「100個なら用意出来ます」との事に事務所内が湧いた。


同時に「どのようにして寝袋を被災地に届けるのか」を探らなければならなかった。ネットで調べたものの義援金の受付はあるものの、救援物資を受け付けている行政機関が見つからなかった。どのようにして届けるのか。



この時も役に立ったのがツイッター。私が環境大使を務めている長野県小諸市が私のつぶやきを見て「小諸市は被災地の相馬市と友好関係を結んでいるので救援物資を届けようとしていますが、一緒に寝袋を運びますよ」との連絡が入る。また環境観光大使を務めている岡山県総社市の片岡市長からも「総社市も被災地に救援物資を運びます」とご連絡を頂いた。




3月15日にコールマンジャパンさんに連絡を入れ寝袋100個の注 文。

3月16日の夕方に救援物資をトラックに詰め込み東京から小諸市へ。

3月17日に小諸市から福島県相馬市へ寝袋が届けられた。

3月17日の深夜、小諸市の職員の方から私のツイッターに「無事に寝袋を届けました」との連絡を入った時には涙が出そうになったが、まだまだこれからだと感慨にふけっている場合じゃないと言い聞かせた。



3月18日にはコールマンジャパンさんからさらに「200個の寝袋と寝袋の中に入れるインナーも100枚を用意できる」との連絡を頂き、またアウトドア・メーカーのスノーピークさんの寝袋も100個注文できた。そして友人からも約30個の寝袋が。



相馬市に続き今度はこの330個の寝袋をやはり津波で壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市へ届ける事になった。



陸前高田市では避難所が足りずキャンプ場で被災者の方々がテント生活しているとの情報が入る。この寒さの中、また天候が崩れ、雪が降る陸前高田市。



3月23日に小諸市からこれらの救援物資をトラックに積み込み陸路で運ぶ事になった。私も小諸市の職員の方と一緒に現場入りする。



そして嬉しかったのが3月18日の朝に中国香港に滞在している私の兄貴に「中国で寝袋を調達できないものか」と相談したところ、その日の夕方に「1000個の寝袋が用意できそうだ。知り合いの中国人たちが集めてくれている」との事。これには心底驚いたが、喜んでいる間もなくその1000個の寝袋をどうやって至急国内に持ち込むのか。ここで役立ったのがまたもやツイッター。ツイッターで「1000個の寝袋をどうやって日本に」と呟いたら、翌19日の早朝に「知り合いにANAの人がいるので紹介します」と連絡が入り、ただいま、全日空さんが調べてくださっています。



一週間後には中国からの寝袋も被災地に届ける事が出来れば・・・。




私にとってもこの一週間はとてつもなく目まぐるしかった。現地からの映像に落胆しながらも、しかし同時に多くの方々からツイッターを通して沢山の情報を頂き、またアウトドア・メーカーや小諸市の職員、香港にいる兄貴や中国の方、そしてANAの方々が一緒になって被災地に寝袋を届けようと動いてくださったのだ。人の繋がりの温かさにどれだけ救われた事か。



東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)による現段階の被害状況は死者6911人。安否不明は19370人。避難は403975人。戦後最大の被害となり失ったものは果てしなく大きい。「復興」と一言で言ってもその道のりは果てしなく遠いだろう。しかし、諦めてしまっては終わる。一歩一歩コツコツと前へ前へと進んでいくしかない。



私には私に出来る事がある。みんなにもみんなに出来る事がある。日本中の人々が、それぞれ何か1つを背負っていけば、時間はかかるかもしれないが必ず立ち直ると私は信じている。




2011年3月19日  野口健

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