2011年3月30日水曜日

Movie: Malcolm X


本日は、マルコムX、DVD鑑賞しました。

ずいぶん前に1度観た記憶があるのですが、その頃は、深く考えて観てなかった。

でも、今回は、いろんな視点から観て、楽しかった。

前回は、まったくイスラムの事は無知だったので、理解するには難しかった。

今回は、1940年代のアメリカで、イスラムの教えを知り、人生が変わった、マルコムX。
その時代にアメリカでのイスラム活動や、行動、服装など、今の私の考えでは、黒人によって都合のいいように考えられたイスラムだったんだな~と。


マルコムXも、メッカ巡礼後、本当のイスラムに触れ、考えを改めなおしていましたが、本当の現時の場に身をおいて初めて見えてくることてあるよな~と。
私も、自分がイスラムにかかわるまで、間違った情報を持っていたんだ、と、気づいたことと、同じだな。
それまで、避けてた、イメージ悪かったイスラム。笑
でも、現実は違ったからね。


それでも、間違った方向に動いている過激派もいる、という事実。

人は、イスラムは命の危険性がある、というが、そう考えることも、少しは理解できる。
しかし、ほとんどの90%以上のモスリムは平和が大好きな人たちだと思う。

マルコムXってね、オバマ大統領に雰囲気が似てると思いません????





ちょっと、マルコムXの情報を載せます。

マルコムX (Malcolm X, 1925年5月19日 - 1965年2月21日) は、アメリカの黒人公民権運動活動家。

ネーション・オブ・イスラム (NOI) のスポークスマン、ムスリム・モスク・インク (Muslim Mosque, Inc.) およびアフリカ系アメリカ人統一機構 (Organization of Afro-American Unity) の創立者でもある。旧名はマルコム・アール・リトル (Malcolm Earl Little) 。非暴力的で融和的な指導者だったキング牧師らとは対照的に、アメリカで最も著名で攻撃的な黒人解放指導者として知られている。



1946年1月12日、20歳のときに強盗の罪で逮捕され、窃盗罪で懲役8~10年が宣告された。通常の窃盗罪は初犯では懲役2年となる事が多いが、白人女性のソフィアと継続的な性的関係を持っていたため、通常よりも長い懲役刑を宣告された。収監されたチャールズタウン州刑務所ではあらゆるものを罵り、特に神と聖書に対する悪罵から彼は「サタン」と呼ばれた。

1948年に家族がマルコムをイスラム教に改宗させた。彼は獄中でイライジャ・ムハンマド (en:Elijah Muhammad) の教徒と彼の行っていたブラック・ムスリム運動に出会い、その教えを勤勉に研究した。マルコムはイライジャと文通を行い、独学で知識を進歩させ、手紙を毎日書いた。異母姉のエラは、彼をより自由のきくノーフォークのマサチューセッツ州刑務所へ移送する支援をした。そこで彼は熱心な指導者となり、歴史上および哲学上にイライジャ・ムハンマドの教えと NOI の正当性を発見した。彼は刑務所内の毎週の討論会に参加し、知識を広げ、筆跡を改善するために刑務所の図書館の全辞書を筆写したりもした。その際、刑務所内で勉強するためとして割り当てられていた時間を越えて消灯後も独房内で月明かりや通路の照明だけを頼りに本を読み辞書を筆写していたため、収監前は 2.0 あった視力が 0.2 まで落ち、後に眼鏡を購入する事になった。出所後、一躍名を知られるようになったマルコムはテレビやラジオ、雑誌等マスコミのインタビューで、刑務所内で磨かれた卓抜すぎる言葉遣いや知性の高さが窺える仕草から一流の大学を卒業しているのだろう、と勝手に推測され、出身大学はどこかと訊ねられた時には刑務所内の図書館だ、と答えている。マルコムは自伝で、大学や大学院を卒業している黒人を「白人に従順になるように調教された事に気付かない哀れな家畜だ」と述べている。

マルコムは1952年8月7日に釈放され、スーツケースと眼鏡、時計を購入した。後に彼はこれらのものが、自分の人生の中で最も役に立ったアイテムだったと語った。

1952年9月、彼は NOI から "X" という姓を授かり、これ以降現在の本名「マルコムX」を名乗ることになる。アメリカ黒人の「姓」は本来の彼らの姓ではなく、奴隷所有者が勝手につけたものにすぎないとネーション・オブ・イスラム教団では考え、未知数を意味する「X」は、失われた本来の姓を象徴するものである。同名の人物が入信した場合、入信した順番に「X」の後ろに番号をつける事になっていた。○○X2、○○X3、といった具合である。

1957年、ネーション・オブ・イスラムの一人が警察官に暴行を受け逮捕された。教団はこれに抗議、マルコムを中心とした FOI (Fruit of Islam, 信者の総称) が留置所前で仲間を病院へ送るよう要求した。これが受け入れられ、NOI とマルコムは一躍名を知られることとなった。



1962年、イライジャが少女を強姦し子を産ませていたことが判明し、マルコムは NOI に失望する。彼はイライジャの行為に怒り、このことを告発。NOI における立場を危うくする事になる。1963年2月に教団は彼を暗殺しようとしたが失敗に終わる。

1964年3月26日、マルコムはキング牧師と最初で最後の対面をした。これはあらかじめ予定されていたものではなく、その日二人がたまたま公民権法に関する論議を聞くためにアメリカ合衆国議会議事堂を訪れていたために実現したものであり、会話も挨拶のみでわずか1分ほどで終わった[1]。

同年、マルコムはメッカに巡礼。そこで彼は現地のイスラム教徒から熱い歓迎を受ける。白人でありながら自分たち黒人を肌で判断しない彼らに感銘を受け、それまでの考えを捨てた(ただし人種概念をもとに大別した時、中東系はコーカソイドとされるが、ヨーロッパ系からは同じ白人としてみなされる場面は少ない)。正統派への転向者としてアメリカに帰国し、NOI を脱退し、アフリカ系アメリカ人統一機構 (Organization of Afro-American Unity) を組織するが、マルコムと NOI の緊張は増加した。教団内に侵入したFBIの潜入捜査官は、マルコムが教団によって暗殺の対象になったと報告した。メッカ巡礼後、マルコムはアメリカの黒人に向けてアフリカへ帰れ、と呼びかけた。

暗殺の対象となったマルコムは、護衛なしでは外を出歩かないようになった。ライフ誌は、M1カービン銃を持って窓から外を凝視するためにカーテンを開くマルコムXの有名な写真を掲載した。写真は、彼と家族が毎日受けていた死の脅迫から自己防衛するというマルコムの宣言から公表された。


教団はマルコムの暗殺指令をメンバーに下した。教団内の FBI 工作員は教団からマルコムの自動車に爆弾を仕掛けるように指示された。1965年2月14日に、ニューヨークの彼の自宅は教団メンバーによって爆弾で攻撃されたが、マルコムと彼の家族は無事だった。

一週間後の2月21日、マンハッタンのオードゥボン舞踊場でマルコムがスピーチを始めたとき、400 人の群衆の中で騒動が発生した。男が「俺のポケットから手を離せ!、ポケットにさわるな!」と叫んだ。マルコムのボディーガードが騒動に対処しようとしたとき、男は前に突進し、短い散弾銃をマルコムの胸に向けて発射した。さらに他の二人がステージに素早く近づき、マルコムに短銃を発砲した。マルコムは 15 発の銃弾を受け、コロンビア長老教会病院に運ばれたが死亡が確認された。

マルコムX はニューヨーク州ハーツデールのファーンクリフ墓地に埋葬された。また、NOI の信者、タルマージ・ヘイヤー(トーマス・ヘーガン)、ノーマン・3X・バトラー(ムハンマド・アブドゥル・アジズ)およびトマス・15X・ジョンソン(カリル・イスラム)の三人が殺人罪で逮捕され、全員が1966年3月に第一級殺人で有罪と判決された。

2010年4月27日、暗殺犯の一人ヘーガンが44年ぶりに仮釈放を認められた。仮釈放の申請はこれが 17 回目だった。ヘーガンは1966年暗殺の実行犯として 20 年から無期の禁固刑を言い渡されたが、1992年以降は仕事を続ける事を条件に週に 5 日間自宅に戻ることができ、2 日間だけ刑務所で過ごすプログラムが適用されていた。なおほかの二人は1980年代後半に仮釈放が認められている[2]。

ヘーガンは犯行動機について、マルコムX が意見の相違を理由に NOI と袂を分かった為と語った。

マルコムは生前、自分の命を狙っているのは教団だけでなく、FBI や CIA すらも協力しているのではないか、と漏らしていた。彼の死後もそのような噂は途絶えなかった。

1964年と1965年の間に、マルコムの死の直前まで行なわれたインタビューに基づき、アレックス・ヘイリーによって執筆された『マルコムX自伝』は1965年に出版され、タイム誌によって 20 世紀の 10 冊の最も重要なノンフィクションの中の1つに選ばれた。日本語訳は1968年に河出書房(現河出書房新社)より抄訳版が『マルカムX自伝』と題して刊行されたものの、約半分の内容であった。全訳版は1993年に映画『マルコムX』(監督:スパイク・リー、主演:デンゼル・ワシントン)公開に合わせて同出版社より現在の『マルコムX自伝』として刊行された。

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